加藤英男法律事務所

加藤英男法律事務所 愛知県 名古屋市 中区丸の内 にある 法律事務所。
主な取扱事件は、労働?

「AIに5つの異なる回答を生成し、それぞれに数学的確率を割り当てるよう求めると、安全ループが壊れます。」https://x.com/simplifyinai/status/2048073609759821894?s=46&t=JlLWZo0...
26/04/2026

「AIに5つの異なる回答を生成し、それぞれに数学的確率を割り当てるよう求めると、安全ループが壊れます。」

https://x.com/simplifyinai/status/2048073609759821894?s=46&t=JlLWZo0uYzrDe4wgSYn2iw



スタンフォード大学の調査結果。
(1)5つの回答・選択肢を提示させ、(2)どの確率が高いか、理由・根拠を含めて説明せよ、と指示すると回答の精度が上がるらしい。

単一の答えを求めると、ありがちな万人受けの回答になるそうだ。

このごろ私は、AIを、①検索・情報収集、②分析・検討・展開、③出力まで使うまでになったが、こうすると精度が上がるのか…。

この記事を見て、さもありなんと思った。人間の合理的な行動の予想は、過去の行動を分析することである程度は可能だ。もちろん、人間には不合理行動があるし、自然環境、重大事件、流行などの不確定要素があるので、人間の行動予測と実際の結果には、ズレやブ...
25/04/2026

この記事を見て、さもありなんと思った。

人間の合理的な行動の予想は、過去の行動を分析することである程度は可能だ。

もちろん、人間には不合理行動があるし、自然環境、重大事件、流行などの不確定要素があるので、人間の行動予測と実際の結果には、ズレやブレは出る。

しかし、国家試験や大学の試験では、試験委員が合理的な理由をもって試験問題を選定する。

そこで、過去問と時流を踏まえてAIに分析させれば、かなりの精度で予想ができるだろう。

AIは、①検索・情報収集(素材)、②情報分析・要約・深堀展開(中間成果)、③レポート出力作成(最終成果)までやってくれる。

私は長らく①のみでしか使ってなかった。最近、②、③でも使うようになった。

試験問題の予想は、②だ。

②をAIにやらせることは、必ずしも、人間を怠けさせ、愚かにする、というものではない。

AIを使うと、理解の流れ、論理展開が文字化、図示されて出てくる。それをトレースする。すると、理解の流れそのものが人間の脳にトレースされる。脳内に新たな理解の型ができる。

つまり、アタマが良くなる、ということだ。

AIは、人を怠けさせ、愚かにすることもあるが、やりたいことが多い人、やるべきことが多い人は、「もっとできるようになる」。

実用、学問の世界だけでなく、芸術の世界でも、AIは、底上げ機能があると思う。スポーツの世界でも、細かな手作業の世界でも、効果的な身体操作や鍛錬・訓練法の提示をさせることで、同様に働くだろう。

AIは、人間の学習を加速させるツール。人間を進化させるツールかも知れない。若く、勤勉な人は、どんどん先に進んで行くだろう。中高年は、時代に置いて行かれないよう、AIで学習を加速させて行くしかない。

友だち自慢「僕の友だちには、すごいやつがいるんだ。(僕はすごくないけどね)」子どものころは、「◯◯くん、って知ってる?僕は知ってるよ。」という言葉もよく聞いた。今の私には、AIが、そんな感じだ。たまに間違いもする。しかし、こちらが気づいて指...
30/03/2026

友だち自慢

「僕の友だちには、すごいやつがいるんだ。(僕はすごくないけどね)」

子どものころは、「◯◯くん、って知ってる?僕は知ってるよ。」という言葉もよく聞いた。

今の私には、AIが、そんな感じだ。
たまに間違いもする。
しかし、こちらが気づいて指摘すると瞬時に訂正できる。
言い訳、自己弁護しない。
いいやつだ。

今日は、「令和7年(行ヒ)第25号 行政処分取消請求事件 令和8年3月27日 第三小法廷判決」について、話を聞いた。

判決書は、最高裁のHPからダウンロードできる。
https://www.courts.go.jp/saikosai/

行政法、憲法の大家である研究者として、大学院生レベルに解説してほしいと頼んだ。

本物の判例評釈レベルの解説書が数秒でできてしまった。

詳細は省くが、鋭いなと思ったのは、原判決の論理構造の問題点を指摘している部分だ。

1.裁量審査における考慮事項論の捨象
2.「不当なものでなかったということはできない」論法
3.比例原則審査の不適用

これだけでもAIの評釈を読んでよかったと思う。
これから、自分の仕事においても、注意しておいた方がよいと思える、射程の長い知恵の言葉だからだ。

以下、AIの指摘を引用する。

# #
1.裁量審査における考慮事項論の捨象
行政事件訴訟法30条に基づく裁量審査において、裁量権の逸脱・濫用の有無を判断するためには、行政庁が①考慮すべき事情を考慮したか、②考慮すべきでない事情を考慮しなかったか、③各事情を適切に衡量したか、という三つの観点から審査すること(考慮事項論)が要求される。
しかし、原判決は、「発射行為の危険性」という一側面のみを考慮し、以下の必須の考慮事項を実質的に捨象した。
考慮すべき事情
市からの出動要請という公益的文脈 言及なし
非常勤公務員としての職務遂行中であること 言及なし
特措法の立法趣旨 言及なし
C隊員への死傷結果が生じなかったこと 軽視
熊まで18mという近距離での緊迫した状況 軽視
処分の萎縮効果 言及なし

2.「不当なものでなかったということはできない」論法
原判決は「本件発射行為が不当なものでなかったということはできない」という二重否定の論法を用いている。
これは論理的に精密ではない。
「不当でなかったということはできない」は「不当である」と同義ではなく、「不当である可能性を排除できない」という蓋然性の命題にすぎない。
しかし、原判決はこの蓋然性の命題から、裁量権の逸脱・濫用がないという確定的な結論を導いており、論理の飛躍がある。

3.比例原則審査の不適用
原判決は、取り消しという最も重い処分を選択することの相当性について、実質的な審査を行っていない。銃刀法11条1項柱書きの「取り消すことができる」という規定は、取り消し以外の対応(警告・条件付き継続等)も選択肢として含意しているにもかかわらず、原判決はこの点を検討していない。
# #

私の友だち自慢に、お付き合いしていただきありがとうございました。

26/03/2026

私がAIに指示して作成させた、刑法専攻で大学院に進む学生に向けた講演の原稿(論文)です。
お楽しみください🙇

※私見は、結果無価値論です。規範的機能を持ち出すために、わざわざ違法性論で行為無価値論を加味する必要はないと思っています。
この講演原稿(小論文)の事前指示(プロンプト)において、「あなたは2026年3月現在、超絶頭のいい、新進気鋭の刑法学の教授です。」と役割・地位を与えたので、穏健な説になっています。

↓ ↓

【違法性論における結果無価値論と行為無価値論の現代的展開
――その理論的対立構造と実践的含意――】

はじめに
刑法学における違法性論の中核をなす「結果無価値論」と「行為無価値論」の対立は、単なる学説上の抽象的論争にとどまらず、因果関係論、未遂犯論、正当防衛論、共犯論といった刑法総論の根幹的問題に直結する、きわめて実践的な意義を有する理論的争点である[2]。本稿は、大学院生レベルの読者を対象として、両論の理論的基盤を精緻に分析し、現代刑法学における到達点と残された課題を批判的に検討することを目的とする。
1970年代以降、日本刑法学界においては、この両論の対立が学説の中心的争点として位置づけられてきた[2]。かつては行為無価値論が通説的地位を占めていたが、現在では結果無価値論が有力説として台頭し、両者の間で精緻な理論的応酬が繰り広げられている。以下では、まず両論の基本的構造を確認したうえで、その対立の多層的構造を分析し、さらに各論点における具体的帰結の相違を検討する。

第一章 両論の基本的構造
1 結果無価値論の理論的基盤
結果無価値論(Erfolgsunwertlehre)とは、違法性の実質を、行為によって惹起された法益侵害またはその危険という「結果」に求める立場である[1]。この見解によれば、刑法の目的は専ら法益保護にあり、違法判断は客観的な法益侵害の有無という事後的・客観的評価に尽きるとされる。
この立場の理論的核心は、いわゆる「客観は違法に、主観は責任に」という命題に集約される[5]。すなわち、違法性判断においては行為者の主観的要素(故意・過失・目的等)を一切捨象し、純粋に客観的・外部的な事態の評価のみを行うべきであるとする。これを「物的違法論」とも称する[5]。
山口厚教授に代表されるこの立場は、次の論拠を主要な根拠として掲げる。第一に、刑法の目的を法益保護に限定することで、刑法による道徳・倫理の強制を排除し、個人の自由領域を最大限に確保できるという自由主義的論拠である。第二に、違法判断の客観性・明確性を担保することで、罪刑法定主義の要請に応えられるという論拠である[5]。第三に、違法性判断を客観的事態に限定することで、違法判断と責任判断の明確な区別が可能となるという体系的論拠である。
2 行為無価値論の理論的基盤
行為無価値論(Handlungsunwertlehre)とは、違法性の実質を、行為の規範違反性、すなわち行為が社会的行動準則に反することに求める立場である[11]。この見解によれば、刑法は単に法益を保護するだけでなく、人々に対して「何をすべきでないか」という行動準則を提示する規範であり、この行動準則への違反こそが犯罪の本質であるとされる[2]。
現代の行為無価値論は、純粋な行為無価値論(一元的行為無価値論)ではなく、結果無価値の要素をも取り込んだ「二元論」の形態をとるのが一般的である[3]。すなわち、違法性の判断においては、法益侵害という結果無価値と、規範違反という行為無価値の双方を考慮すべきであるとする。大塚仁教授、西田典之教授らがこの立場を代表する。
行為無価値論の主要な論拠は以下の通りである。第一に、刑法は単なる事後的な法益侵害の確認にとどまらず、事前に人々の行動を規律する規範として機能するという規範論的論拠である。第二に、同一の法益侵害結果であっても、行為態様の差異によって違法性の程度が異なるという直観的妥当性の論拠である。第三に、社会倫理秩序の維持という刑法の機能を正面から認めるべきであるという実質的論拠である。

第二章 対立の多層的構造
佐伯仁志教授が適切に指摘するように、結果無価値論と行為無価値論の争いには、異なる二つの論点が絡み合っている[5]。この点を峻別して分析することが、両論の対立を正確に理解するための前提となる。
1 第一の論点:刑法の目的論(法と道徳の関係)
第一の論点は、刑法が法益保護のみを目的とするのか、それとも道徳・社会倫理の保護をも目的とするのか、という問題である[5]。
結果無価値論は、刑法の目的を法益保護に限定する。この立場からは、道徳それ自体を刑法によって保護することは、個人の内面的自由への不当な介入であり、刑法のモラル化(Moralisierung des Strafrechts)として排斥されるべきものとなる[2]。
これに対し、行為無価値論は、刑法が社会倫理秩序の維持という機能をも担うことを認める。ただし、現代の洗練された行為無価値論は、単純な道徳主義に陥ることなく、法益保護との有機的連関の中で社会倫理的評価を位置づけようとする。
この論点は、いわゆる「法と道徳の分離」という近代法の根本問題に直結しており、単純に一方が正しいと断言できる性質のものではない。問題は、刑法が道徳から完全に独立しうるか否かという哲学的問いにまで遡及する。
2 第二の論点:違法性判断の構造
第二の論点は、違法性判断が事前判断であるべきか事後判断であるべきか、また主観的違法要素をどこまで認めるべきか、という違法性判断の構造をめぐる問題である[5]。
結果無価値論は、違法判断を事後的・客観的評価として構成する。行為時点における行為者の主観的要素は違法性判断に影響せず、もっぱら責任判断の問題とされる。これにより、違法性と責任の明確な区別が実現されるとされる。
行為無価値論は、これに対し、違法判断を事前的・規範的評価として構成する。行為規範への違反という観点からは、行為者の主観的要素(故意・過失・目的・傾向等)が違法性判断に取り込まれることになる。主観的違法要素の承認は、この立場の帰結として自然に導かれる。

第三章 各論点における具体的帰結の相違
両論の対立は、刑法総論の各論点において具体的な帰結の相違をもたらす[2]。以下では、特に重要な論点を取り上げて検討する。
1 偶然防衛の問題
偶然防衛とは、行為者が防衛の意思を欠いたまま、客観的には正当防衛の要件を充足する行為を行った場合をいう。例えば、Aを殺害しようとして発砲したところ、偶然にもAがBを殺害しようとしていた場面であり、客観的にはBの攻撃からAを防衛したことになる場合である[18]。
結果無価値論の立場からは、客観的に正当防衛の要件が充足されている以上、違法性が阻却されるか、少なくとも違法性が減少するという結論が導かれやすい。違法判断は客観的な法益侵害の有無に尽きるからである。
行為無価値論の立場からは、防衛の意思という主観的要素を欠く以上、行為規範への違反が認められ、違法性は阻却されないという結論が導かれる。行為の規範違反性という観点からは、行為者の主観的態度が決定的な意義を持つからである。
2 不能犯の問題
不能犯とは、行為の性質上、結果発生が不可能な場合をいう。例えば、砂糖を毒薬と誤信して被害者に飲ませた場合などがこれにあたる。
結果無価値論は、客観的な法益侵害の危険性を基準として不能犯の範囲を画する。客観的に法益侵害の危険が存在しない場合には、不能犯として不可罰となる。この立場は、危険の判断基準として「客観的危険説」と親和的である。
行為無価値論は、行為者の主観的認識を基礎とした危険判断を重視する傾向があり、行為者が危険と認識した事情を基礎として危険性を判断する「具体的危険説」と親和的である。
3 正当防衛における主観的要件
正当防衛(刑法36条)の成立に防衛の意思が必要か否かという問題においても、両論は異なる帰結をもたらす。
結果無価値論は、防衛の意思を正当防衛の主観的要件として要求しない立場と親和的である。違法性阻却の根拠を客観的な法益衡量に求める以上、行為者の主観的態度は違法性判断に影響しないからである。
行為無価値論は、防衛の意思を正当防衛の主観的要件として要求する立場と親和的である。行為の規範適合性という観点からは、行為者が防衛の意思をもって行動することが、行為の社会的相当性を基礎づけるからである。
4 共犯論における帰結
共犯論においても、両論の対立は重要な帰結をもたらす。特に、違法の連帯性・個別性の問題において顕著である。
結果無価値論は、違法を客観的・物的なものとして把握するため、正犯の違法性が共犯者にも連帯的に帰属するという「違法の連帯性」を基礎づけやすい。
行為無価値論は、各行為者の行為の規範違反性を個別に評価するため、「違法の個別性」を認める余地が大きい。

第四章 現代的展開と批判的検討
1 結果無価値論に対する批判
結果無価値論に対しては、以下の批判が向けられている。
第一に、刑法を純粋な法益保護の道具として把握することは、刑法の規範的・行為指導的機能を過小評価するという批判である。刑法は事後的な法益侵害の確認にとどまらず、事前に人々の行動を規律する規範として機能するのであり、この規範的機能を無視することはできないとされる[2]。
第二に、「客観は違法に、主観は責任に」という命題を徹底すると、故意犯と過失犯の違法性が同一となり、両者の質的差異を説明できないという批判がある。
第三に、偶然防衛を違法性阻却とする帰結は、一般市民の法感情に著しく反するという批判がある。
2 行為無価値論に対する批判
行為無価値論に対しては、以下の批判が向けられている。
第一に、社会倫理秩序の維持を刑法の目的として認めることは、刑法による道徳の強制につながり、個人の自由を不当に制約するという批判である[2]。
第二に、違法性判断に主観的要素を取り込むことで、違法性と責任の区別が曖昧になり、刑法体系の論理的整合性が損なわれるという批判がある。
第三に、「社会的相当性」という概念の不明確性が、違法性判断の恣意化をもたらすという批判がある。
3 現代的収斂の可能性
近年の学説動向を観察すると、両論の対立は必ずしも截然たる二項対立ではなく、相互に影響を与えながら精緻化されてきていることが看取される。
現代の行為無価値論の多くは、結果無価値の要素を取り込んだ二元論の形態をとっており[3]、法益侵害という結果無価値を違法性の必要条件として承認する。他方、結果無価値論においても、行為の危険性という観点から行為態様の評価が取り込まれる傾向がある。
この収斂傾向は、両論の対立が実は程度の問題であり、違法性判断において何を「中心」に据えるかという重点の相違に帰着するという見方を支持する。しかし、偶然防衛や不能犯の問題においては、依然として具体的帰結の相違が生じており、対立の実践的意義は失われていない。

第五章 筆者の見解
以上の検討を踏まえ、筆者は以下の見解を提示する。
結果無価値論の最大の功績は、刑法の自由主義的基盤を明確にし、刑法による道徳の強制という危険に対する鋭い警戒心を刑法学に植え付けた点にある。この功績は、現代の法治国家における刑法の役割を考えるうえで、永続的な意義を有する。
しかし、刑法を純粋な法益保護の道具として把握し、違法性判断から行為の規範違反性を完全に排除することには、理論的困難が伴う。刑法は本質的に行為規範であり、人々に対して「何をすべきでないか」を告知する機能を有する。この規範的機能を無視した違法性論は、刑法の本質的側面を見落とすことになる。
他方、行為無価値論が社会倫理秩序の維持を刑法の目的として正面から認めることには、慎重であるべきである。刑法による道徳の強制は、個人の自由への重大な脅威となりうる。行為無価値論は、この危険を常に意識しながら、法益保護との有機的連関の中で規範違反性を位置づける必要がある。
筆者は、違法性の実質を法益侵害という結果無価値に基礎づけつつも、行為の危険性・規範違反性という行為無価値的要素を違法性の量的評価において考慮する立場が、現時点における最も説得力ある解決であると考える。この立場は、結果無価値論の自由主義的基盤を維持しながら、行為無価値論が指摘する刑法の規範的機能をも適切に評価するものである。

おわりに
結果無価値論と行為無価値論の対立は、刑法学における最も根本的な問いの一つ、すなわち「刑法は何のために存在するのか」という問いに直結している[2]。この問いに対する答えは、単なる学術的関心にとどまらず、具体的な刑事事件における解決の方向性を左右する実践的意義を有する。
大学院生諸氏には、両論の対立を単なる学説の暗記として処理するのではなく、その背後にある哲学的・政策的問いと真摯に向き合うことを求めたい。刑法学の醍醐味は、まさにこのような根本的問いへの探求にある。両論の精緻な理論的応酬を通じて、刑法学はより豊かな理論的発展を遂げてきた。この伝統を継承しつつ、新たな問いを提起することが、次世代の刑法学者に課せられた使命である。

23/03/2026

(AIと議論) 刑法理論と民法損害賠償理論との相違について

昼休みに、AIと議論してみた。



1.私の提出した疑問(お題・1つ目)

私は、次のように問い掛けた。

日本の刑法理論が、行為を出発点に、構成要件(結果、因果関係)、違法性、責任と、明確に要件を意識しているのに対し、日本の民法理論が、行為ではなく、違法性を出発点として、その後は、論者がそれぞれの視点で、故意過失、因果関係、損害を論じており、権利侵害を敢えて違法性と読み替えている理由、および、刑法理論に比して要件があいまいと思われる理由、は何だと思われるか?



2.AIの回答(1つ目)

AIは、答えた。

民法不法行為論の要件が「曖昧」である構造的理由は、以下のとおりである。

① 目的の違い:応報・抑止 vs. 損害填補

刑法は国家刑罰権の行使という重大な効果を伴うため、罪刑法定主義の要請から要件の明確性・形式性が不可欠である。構成要件は「何が犯罪か」を事前に明示する機能を持つ。

これに対し、民法の不法行為は損害の公平な分担を目的とする。誰が損害を負担すべきかという規範的判断は、事案の具体的事情に応じた柔軟な衡量を必要とし、硬直した形式的要件では対応できない場面が多い。

② 「行為」ではなく「損害」を出発点とする発想

刑法は「行為者が何をしたか」を出発点とするが、民法の不法行為論は実務的には「損害が発生したか」を出発点とする傾向がある。これは、民事訴訟において原告(被害者)が損害の発生を主張・立証することから手続が始まるという訴訟構造とも対応している。



③ 違法性と過失の融合傾向

日本民法学では、違法性と故意・過失を截然と区別することの実益が乏しいという見解も有力である。特に過失の客観化(客観的注意義務違反としての過失)が進むと、違法性判断と過失判断は実質的に重複する。これが要件の「曖昧さ」として現れる。



④ 受忍限度論の展開

公害訴訟等を通じて定着した受忍限度論は、適法な権利行使であっても社会観念上の受忍限度を超えれば不法行為となるという法理であり[1]、これは「行為の違法性」を固定的に判断するのではなく、被害の程度・社会的文脈との相関で動態的に判断することを意味する。このような判断構造は、刑法的な構成要件論とは根本的に相容れない。



3.私の追加質問(2つ目)

私は、AIの回答の ①〜④に疑義があり、追加質問をした。

① 目的の違い:応報・抑止 vs. 損害填補
刑法の目的には、応報、抑止とともに、法益保護、自由保障もある。 民法の目的には、損害填補があるが、これは、刑法でいう、法益保護であって、刑法と共通する。損害賠償は、また、応報の意味もあるし、抑止の意味もある。そして、民法でも、損害賠償が場合により過酷になることもあり、自由保障は必要である。 そうすると、あなたの言う目的の違いは理由にならないのではないか?

② 「行為」ではなく「損害」を出発点とする発想
民法は、損害を出発点とするというが、刑法であっても、未遂犯を含む犯罪結果があってこそ、手続は始まる。 その意味では、刑法でも、民法でも変わらないのではないか?

③ 違法性と過失の融合傾向
刑法でも、民法でも、違法性を法益侵害の危険性(権利・利益の侵害の危険性 )、つまり、結果無価値的に考えるなら、民法でも、違法性と過失の融合傾向自体が失当であるということができ、刑法でも、民法でも変わらないのではないか?

④ 受忍限度論の展開
刑法でも、可罰的違法性論、ちり紙や1円玉の窃盗罪における「財物」性の否定などの理論があり、刑法でも、民法でも変わらないのではないか?



4.AIの回答(2つ目)

AIは、追加質問に答えてくれた。

刑法と民法の理論構造の非対称性——疑義への応答と再考

提示された四つの疑義は、いずれも鋭い批判であり、前回の説明の粗さを正確に突いている。以下、各疑義を真摯に受け止めた上で、より精緻な分析を試みる。

① 目的の違いは理由にならないか

疑義の核心:刑法と民法の目的は実質的に重複しており、目的の違いを理由とすることは失当ではないか。

この疑義は正当である。確かに、損害賠償には応報的機能・抑止的機能があり、刑法の法益保護と民法の損害填補は概念的に重複する。懲罰的損害賠償(punitive damages)を認める法制度では、民事責任が刑事責任と機能的に融合する場面すら存在する。

しかし、目的の「重複」と「重点の置き方」は区別されるべきである。より正確に言い直すならば、問題は目的の違いではなく、法的効果の構造的差異にある。

• 刑法の効果は自由剥奪・生命剥奪という不可逆的・絶対的なものであり、一度発動すれば取り消せない。

• 民法の効果は金銭賠償という可逆的・相対的なものであり、過剰であれば減額・調整が可能である。

この効果の非対称性こそが、要件の明確性・形式性に対する要請の強度の差を生む。罪刑法定主義が刑法に要求される理由は、目的の違いではなく、効果の不可逆性と国家権力の一方的行使という構造的特質にある。民法においては、当事者間の利益調整という双方向的な構造が、柔軟な要件設定を許容する。

したがって、「目的の違い」という説明は不正確であり、法的効果の性質と国家権力の介入様式の違いこそが正確な説明となる。

② 「行為」vs「損害」の出発点の違いは理由にならないか

疑義の核心:刑法でも犯罪結果があって手続が始まる点では同じではないか。

この疑義も正当である。未遂犯を含めても、刑事手続は何らかの事象(行為・結果)の発生を契機とする点では民事と変わらない。

しかし、より精密に考えると、問題は手続の出発点ではなく、要件の論理的構造における「行為」の位置づけにある。

刑法理論においては、「行為」は単なる手続の契機ではなく、構成要件の中核的要素として独立した規範的意義を持つ。行為論(目的的行為論・社会的行為論等)が刑法学において独立した論争領域を形成してきたのは、「行為」概念が責任帰属の出発点として規範的に機能するからである。

これに対し、民法の不法行為論においては、「行為」は独立した要件として析出されず、違法性・過失の判断の中に溶け込んでいる。これは偶然ではなく、民法が損害の帰属問題を中心に構成されているためである。加害者の「行為」よりも、被害者の「損害」と加害者の「帰責事由」との結びつきが論理的中心となる。

したがって、正確な説明は「出発点の違い」ではなく、「行為」概念が要件体系において果たす規範的役割の違いである。刑法では行為が責任帰属の論理的起点として独立するが、民法では行為は損害帰属の判断要素の一つに過ぎない。

③ 違法性と過失の融合傾向は失当か

疑義の核心:結果無価値論的に考えれば、刑法でも民法でも違法性と過失の融合傾向は同様ではないか。

この疑義は理論的に最も鋭い。結果無価値論(法益侵害・危殆化を違法性の実質とする立場)を徹底すれば、確かに違法性判断と過失判断の区別は相対化される。

しかし、ここで重要な論点がある。刑法においては、行為無価値論と結果無価値論の対立が現在も続いており、どちらの立場を採るかによって違法性と責任(故意・過失)の関係が大きく変わる。行為無価値論的立場では、違法性は行為の規範違反性であり、故意・過失は違法性要素として機能する。結果無価値論的立場では、違法性は結果(法益侵害)であり、故意・過失は責任要素に純化される。

民法においては、この対立に対応する議論が十分に展開されてこなかった。その理由として以下が挙げられる:

• 民法709条の文言が「故意又は過失」と「権利侵害」を並列しており、立法上から両者の関係が曖昧である。

• 民法学では、違法性論争よりも過失の客観化(注意義務違反としての過失)の議論が先行し、違法性概念が過失概念に吸収される傾向が生じた。

• 刑法学のように行為無価値・結果無価値という体系的対立軸が民法学では形成されなかった。

したがって、疑義が指摘するように、結果無価値論的観点からは刑法と民法の違いは縮小する。しかし、民法学が体系的な違法性論を発展させなかったこと自体が、民法の要件構造の曖昧さの一因であり、これは刑法学との理論的成熟度の差として説明されるべきである。

④ 受忍限度論は刑法の可罰的違法性論と同様か

疑義の核心:刑法にも可罰的違法性論・財物性の否定等の理論があり、両者は変わらないのではないか。

この疑義も鋭い。可罰的違法性論は、形式的に構成要件に該当する行為であっても、違法性の程度が刑罰に値しない場合には犯罪の成立を否定するものであり、受忍限度論と機能的に類似する。

しかし、両者の間には体系的位置づけの決定的な差異がある。

体系的位置
刑法の可罰的違法性論  → 例外的・補充的理論(通説は消極的)
民法の受忍限度論    → 判例法理として定着・中心的機能

機能
刑法の可罰的違法性論  → 構成要件該当性・違法性の否定
民法の受忍限度論    → 違法性の積極的判断基準

方向性
刑法の可罰的違法性論  → 刑罰の縮小(自由保障)
民法の受忍限度論    → 責任の拡張・縮小の双方向

論理構造
刑法の可罰的違法性論 → 演繹的判断の例外
民法の受忍限度論   → 帰納的・衡量的判断の原則

刑法における可罰的違法性論は、罪刑法定主義・構成要件論という形式的・演繹的体系の例外として位置づけられ、学説上も争いが多い。これに対し、民法の受忍限度論は判例法理として定着し、不法行為の違法性判断の中心的基準として機能している。

つまり、両者は機能的に類似するが、体系における位置づけが根本的に異なる。刑法では形式的体系が原則であり衡量的判断は例外であるのに対し、民法では衡量的判断が原則として機能している。この非対称性こそが、要件構造の差異を生む本質的要因である。

総括:真の非対称性の所在

以上の再検討を踏まえると、刑法と民法の理論構造の非対称性の真の理由は、目的・出発点・融合傾向・衡量的判断という個別の要素の違いではなく、以下の二点に集約される。

第一に、法的効果の不可逆性と国家権力の介入様式の差異
刑罰の不可逆性が罪刑法定主義を要請し、形式的・演繹的な要件体系を必然化する。民事賠償の可逆性・調整可能性は、柔軟な衡量的判断を許容する。

第二に、理論的成熟度と体系形成の歴史的差異
日本刑法学はドイツ刑法学の精緻な体系(構成要件論・違法性論・責任論)を継受し、行為無価値・結果無価値という対立軸の下で体系的議論を深化させた。これに対し、日本民法の不法行為論はフランス民法学の影響下で出発し、体系的な違法性論・行為論を発展させないまま、判例による個別的・実践的な法形成が先行した。この歴史的・理論的成熟度の差が、要件構造の精緻さの差として現れている。



5.最後に

結局、AIは、2つの理由に収斂させたが、意義のある理由は、「第一 法的効果の不可逆性と国家権力の介入様式の差異」であろう。
そして、「刑罰の不可逆性」については、民法損害賠償事件の生命身体への不法行為の場合には、決定的な理由にならないように思う。
「国家権力の介入様式の差異」も、強制執行を考えたら、相対的な理由でしかないように思う。

学生時代、受験生時代には、学食や談話室でしたような議論。
今はもう誰も相手してくれないが、AIはどんな疑問も受け付けてくれてありがたい。

人間は、「感情の動物」だという。それだけ、人間は、自身の「感情」に支配されやすい。「感情」は「気分」でもある。「感情」「気分」が乱れると、「行動」が乱れる。「行動」が乱れると、人間関係や社会生活がうまく行かなくなる。昔から、人間関係に関わる...
20/03/2026

人間は、「感情の動物」だという。

それだけ、人間は、自身の「感情」に支配されやすい。
「感情」は「気分」でもある。

「感情」「気分」が乱れると、「行動」が乱れる。
「行動」が乱れると、人間関係や社会生活がうまく行かなくなる。

昔から、人間関係に関わる紛争事件は多い。
私も数々扱い関与してきた。

対応の基本は、というと、やはり、「病気に起因する」ものかどうか。

「病気に起因する」ものであれば、医師に掛かる。治療を受ける。
場合により、「行動」に問題があっても、その問題の評価や処分(責任問題)が、一時棚上げになる。

反対に、「病気に起因する」ものでない、というのであれば、「行動」と「結果」は評価され、処分(責任問題)が検討されることになる。

最近は、労働関係で、この種の紛争事件が多くなってきた。

上に書いたことを含めたまとめのメモはこちら。

15/03/2026

「民事裁判、損害賠償理論について」

弁護士登録30周年表彰を受けた際、同じ壇上には、同期の仲間たちとともに、米寿記念表彰を受ける方々がいらっしゃった。
その中には、私が駆け出しの頃、ある訴訟事件で、被告企業側弁護団の一員として活動したときに所属した専門部会の部会長だった方の姿もあった。

かの訴訟事件は、訴額数十億円、名だたる企業多数が被告とされた損害賠償請求訴訟事件だった。駆け出しの私は、並み居る東京、大阪、名古屋の重鎮弁護士らの中、勤務先法律事務所から派遣された下働き、雑用係だった。

あるとき、私は、重鎮らから共通準備書面のたたき台原稿作成を指示された。
その際、私は、司法試験受験生時代から考えていたことを展開してみよう、と思った。

当時、民法の共同不法行為論では、客観的関連共同性という基準で社会通念に従って成否が判断されると言われていた。ただし、実際のところは、客観的関連共同性の中身を緻密に分析検討するというより、社会通念に従って弾力的に(事案ごとに)判断していく、という印象だった。

私は、司法試験受験生時代から、民事の損害賠償請求事件の理論構成においては、刑事事件同様、慎重に、緻密に、分析的に、より端的には法益保護とともに可測性・自由保障機能が重視されるべきだという持論を抱いていた。

損害賠償請求事件では、被告とされた側に責任が認められれば、経済的には重大な負担となり、信用、名誉においても深刻なダメージを受けるのであって、刑事事件とそれほど変わりないはずだ、と考えていた。

実体的正義の実現と手続的公正、法律家であれば、誰が判断しても概ね同じ結論になるような、結論が予測できる、明確な理論構成を行って丁寧に判断されるべきだ、と考えていた(刑法の法益保護と自由保障機能は民法でも必要なはず)。

そこで、私は、被告企業側弁護団の共通準備書面のたたき台において、損害賠償責任の根拠としては当該結果発生に因果性を有する危険な行為(権利侵害行為)の存在が出発点であるべきであって、共同不法行為成立の要件としての関連共同性の議論においても、刑法の共同正犯の理論構成を参考に、客観的因果的危険性ある行為の共同、すなわち、「実行行為の共同」ならぬ「権利侵害行為の共同」、を緻密に分析検討すべきである、という主張を展開した。

さらに、原告らに対しては、共同不法行為の要件のどの要件に該当する事実について論じているのか、立証しているのか、明確にするように求め、裁判所におかれては、原告が提出された証拠がそれを正しく裏付けるに至るものかどうか吟味されるべきである、と付言した。

私は、そんな内容の書面を一気に書き上げて、紐のついた封筒に入れて被告企業側弁護団の事務方担当者にお渡しした(当時はメールはなく、数枚の書面であればファックスで、大量の書面は手渡しか、郵便だった)。

約1か月後、専門部会の会議が開催されて、私の書面が検討されることになった。

ところが、部会長は、(事前連絡なしに)会議の冒頭、「加藤くんの書面は、刑法みたいで気持ち悪い。少し手直しをさせてもらったよ。」と下を向いたままおっしゃった。そして、部会長が『少し手直しした書面』が配布された。

部会長の『少し手直しした書面』は、換骨奪胎、私の原稿とは似ても似つかぬものとなっていた。

私は、メリハリの効いた、カラヤンの田園をイメージして書面を作成した。
部会長の『少し手直しした書面』はフルトベングラーの田園だった。

暑い8月の日中だったが、目がチカチカして私の背中に冷たい脂汗が流れた。

もともと専門部会メンバー全体には、「どうせここは勝負どころではない。」という空気が漂ってはいた。

専門部会の会議に参加されていた、司会者の東京の重鎮が、ゆっくりと口を開いた。

「加藤くんが力作を提出してくださって、さらに只今部会長も修正原稿をご提出くださった。この論点の議論では勝負しないという部会長のお考えもあろうから、部会長修正案で検討をすることでよろしいか。特に、加藤くん、いかがか。」とおっしゃった。

専門部会メンバー全員を眺めたら、部会長も含め、司会者の重鎮以外は下を向いていた。

私は、動揺しつつも、東京の重鎮の方を向いて、カラカラに乾いた口で、「異論ございません。お考えのとおりに。」と申し上げた。

私が準備したその他補足説明の資料や原稿も、すべて無駄になった。

私は、いつかきっと自身の考えをまとめてみよう、この経験を忘れないようにしようと思った。

あの専門部会からはもう25年以上経過した。

かの部会長に対するネガティブな感情は今はもうない。
あの経験のおかげで成長できたと思うし、その後の仕事に大いに役立った。

私は、今でも、損害賠償請求事件、労災民事訴訟事件はじめ、民事裁判であっても、刑法の場合と同様に厳格な理論構成をし、要件を丁寧に主張立証すべきであるという考えに変わりない。

最近、同様の考え方で、民事事件に係る法律実務書を書かれた同業者がいて心強く感じた。

そして、自分も、日の目を見ることはないかも知れないけれど、これまでの経験を踏まえて、民事裁判、損賠賠償理論についての考えをまとめてみようか、と思う。

ビジネス文書は、ロジックが大切。そして、読みやすさ。自分が、今、何を論じているかを意識して、書き分ける。意識すればできるけれど、意識していないと、書きたいことを書きたい順に書いてしまう。すると、読み手に負担がかかって、理解してもらえなくなっ...
17/10/2025

ビジネス文書は、ロジックが大切。
そして、読みやすさ。

自分が、今、何を論じているかを意識して、書き分ける。
意識すればできるけれど、意識していないと、書きたいことを書きたい順に書いてしまう。

すると、読み手に負担がかかって、理解してもらえなくなってしまう。

14/10/2025

「ハラスメント問題と憲法」

私は1995年4月に弁護士登録をしました。

私は、憲法は佐藤幸治先生の基本書で学びました。
当時隆盛を誇っていた司法試験予備校で、井上英治先生の解説書・講義、伊藤真先生のレジュメ・講義で理解を深め、憲法が得意科目になりました。

かつて伊藤真先生が講義の中で、憲法以外の他の科目であっても、「答案のどこを切っても憲法論、人権論が見えて来ないといけない。」と言われていたのを思い出します。

日本国憲法は、すべての国民に個人の尊厳を確保することを最高価値としています(憲法第13条)。

そして、国民ひとりひとりに個人の尊厳を確保するために、人権を保障し、国家の行為を規制し、国民の代表である国会が制定した人権と憲法の理念を具体化する法律によって国民間の権利の衝突を予め調整するものとしています(憲法第41条)。

また、具体的な紛争については、裁判所が、法律を解釈適用して、事実にあてはめて、解決する建前であり(憲法第76条、32条)、裁判所が行う法律適用の解釈は憲法の理念に従うことが当然の前提です。

つまり、すべての法律問題は、憲法の問題ということができます。

ハラスメントの問題は、人権相互の調整の問題とみることができます。

ハラスメントの問題も、憲法の問題意識をもって考えると、案外理解しやすいではないかと思います。

①被害者の人格権、自己決定権(憲法第13条)
②加害者の表現の自由(憲法第21条)、人格権、自己決定権(憲法第13条)
③企業の営業の自由(憲法第22条第1項)
この3つの人権の調整の問題とみるのです。

ここで、③企業の営業の自由(憲法第22条1項)は、経営者の権利としてだけでなく、労働者全員の自己決定権(憲法)や職業選択の自由(憲法第22条第1項)を内包するものであることに注意が必要です。

以下、続く。

新ハラスメント研修(定義編)<試作品>ハラスメント研修改訂版(定義編)(無音声版)
01/10/2025

新ハラスメント研修(定義編)

<試作品>ハラスメント研修改訂版(定義編)(無音声版)

無音声版- ハラスメント研修改訂版(定義編)

「ハラスメント研修」より 〜不使用データ【傍観者介入】1.傍観者介入とは「傍観者介入(bystander Intervention)」とは、ハラスメントや問題行動が発生している現場に居合わせた人が、その状況を認識し、何らかの形で介入する行動...
11/09/2025

「ハラスメント研修」より 〜不使用データ

【傍観者介入】

1.傍観者介入とは
「傍観者介入(bystander Intervention)」とは、ハラスメントや問題行動が発生している現場に居合わせた人が、その状況を認識し、何らかの形で介入する行動を指します。
米国の一部の州で企業や団体に義務付けられているハラスメント研修で、必須の研修項目の1つとされています。

2.傍観者効果とは
多くの人が現場にいても誰も助けようとしない現象は「傍観者効果(bystander effect)」として知られています。
端的に言うと、「誰かが助けるだろう」と考えて行動を起こさなくなる心理的傾向のことです。
この「傍観者効果」が社会的に注目されるきっかけとなったのが、1964年にアメリカ・ニューヨークで起きたキティ・ジェノヴィーズ事件です。
被害者のジェノヴィーズは住宅街の自宅近くで襲われ、悲鳴を上げて助けを求めました。多くの近隣住民がその声に気づきながらも、誰も積極的に助けたり警察に通報したりしませんでした。最終的に彼女は命を落としました。
この事件は「38人の目撃者がいたのに誰も助けなかった」と報道され、社会に大きな衝撃を与えました。実際には目撃者数などに誇張があったようですが、近隣住民の誰もが行動を起こさなかった事実は変わりません。
また、犯人のウィンストン・モーズリーは逮捕され、当初は死刑判決を受けましたが、後に終身刑に減刑されました。
モーズリーは、裁判で「住民はすぐに窓を閉めて寝るだろうと思ったし、その通りだった」と述べました。彼は、傍観者心理を利用して犯行に及んだとも言えます。
この事件をきっかけに、「傍観者効果」は社会心理学で広く知られるようになりました。

「傍観者効果」の要因は、①責任の分散、②集合無知(多元的無知)、③聴衆抑制(評価懸念)が挙げられます。
①責任の分散とは、「誰か他の人が助けるだろう」「自分だけの責任ではない」と考え、行動を起こさなくなる心理です。集団の規模が大きいほど、この傾向は強まると言われています。
②集合無知(多元的無知)とは、他の傍観者が誰も行動を起こさないのを見て、「これは介入すべき緊急事態ではないのかもしれない」と誤って判断してしまう心理で、周囲の無反応が、事態の深刻さの過小評価につながります。
③聴衆抑制(評価懸念)とは、「介入して失敗したらどうしよう」「周囲からネガティブな評価をされるのではないか」といった不安から、行動をためらってしまう心理であり、特に、どのように助ければよいか分からない場合に顕著になります。

3.傍観者効果を克服する方策
傍観者効果を克服するためには、根底にある、①責任の分散、②集合無知(多元的無知)、③聴衆抑制(評価懸念)という心理的メカニズムが働かないようにする必要があります。
そのためには、研修を実施したり、制度を整備することで、以下を具体化することが重要です。
㋐責任の明確化と直接的な指示
㋑個人の責任意識と心理的安全性の向上
㋒コミュニケーションと協力の促進
㋓緊急対応スキルの習得と教育
㋔行動のモデル化と勇気の強化

4.ハラスメント対策としての傍観者介入
ハラスメントは、企業内で起こり、企業内のごく少数の人が多数の中にいながら被害に遭うという事象です。
上司、部下、友人などの人間関係も絡み、「傍観者効果」が働きやすい環境にあります。
低成長時代にあり、人手不足倒産という言葉も聞かれるくらい労働人口が減っている現代において、ハラスメント対策は急務です。
そして、ハラスメントは、会社の代表や役員から見えないところで起こるものであり、社員を巻き込んでの対策が必要です。
そこで、ハラスメント対策として、社員を巻き込み、「傍観者効果」が働かないようにして有効性が確認されたのが、「傍観者介入」という手法です。
ハラスメント研修は、米国では、カリフォルニア州、ニューヨーク州、イリノイ州などで実施が義務化されており、「傍観者介入」は、ニューヨーク州では必須項目とされ、その他の州では推奨項目とされています。

5.傍観者介入の具体例
傍観者介入の具体例は、以下のとおりです。
ここでは、傍観者介入の5Dアプローチというものをご紹介します。

(図表)* 画像参照

6.傍観者介入活用の工夫
傍観者介入がうまく機能するためには、傍観者介入の必要性、重要性、傍観者効果のメカニズム、具体的な介入例の学習とローププレイが不可欠です。
また、「ハラスメントは許さない。」「見て見ぬふりをしない。」という意識を組織内で共有し、積極的に介入する文化を醸成する必要がありますし、リーダーである管理職が率先して手本になることも必要です。
そして、介入した社員が不利益を受けるのではなく、人事評価において正しく加点ポイントとして評価される制度設計もなされねばなりません。
日本ではあまり知られていませんが、助けを求めるハンドサイン(手を開き、親指を折り、折った親指を残りの4本で握る)があります。
被害者からの明確なサインを決めておくと、介入もしやすいでしょう。
合わせ、「ハラスメントは許さない。」という文化を根付かせるためにも、通報窓口の設置と、通報があった場合には、迅速かつ厳正な対処を行っていくことが重要です。

住所

1-4-12 Maruno-uchi
Nagoya-shi, Aichi
〒460-0002

営業時間

月曜日 09:00 - 18:00
火曜日 09:00 - 17:00
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