10/07/2026
約2年ぶりに開かれた2陣訴訟の口頭弁論、梅雨明けが宣言された酷暑の中、福岡地裁まで駆け付けて下さった皆様、ありがとうございました。
法廷では氏家剛さんが圧巻の意見陳述を行い、期日後の映画「無念」の上映会では原発事故の理不尽さが鮮明に思い起こされました。
https://www.youtube.com/watch?v=L-arWo7jW-A
いよいよ2陣訴訟も来年4〜5月の原告本人尋問、そして9月結審に向けて大詰めを迎えます。
引き続きのご支援を宜しくお願い致します。
意見陳述書
2026(令和8)年7月9日
氏 家 剛
1 私は生まれも育ちも福島です。桑折町という福島第一原発から約60kmの位置にあり、生産が盛んな桃は毎年皇室・宮家へ献上され、近年はゲンジホタルが再び田んぼを飛び交うよう地元の先輩方が水を綺麗にしてきた、自然豊かな町です。
私は一度も福島を離れたことはなく、就職先も県南に位置する地元の大手スーパーマーケットでした。
当時の私は、色んな経験や勉強をした後に、福島が楽しい町となるような仕事をしたいという夢がありました。大好きな福島を離れるということは考えておらず、このままいつまでも自然豊かで、安心の中で生活できると信じていました。
2 そんな中で、東日本大震災および福島第一原子力事故に遭います。この日、私の人生は変わりました。
緊急制御棒が挿入されたというニュースで、無知な私は「安全を保つためのシステムが動いたのだろう」と思いましたが、実際には危険な状態を止めることができずに3基が爆発。
避難区域は徐々に広がり、ニュースでは「家の中は目張りをする」「外出した時の服は袋に入れて保管する」などの対策情報が流れ、ついには降水確率のように各地の線量値がテロップで流れるようになり、普通の生活なんて無理と通告されているようなものでした。
事故後間もなくテレビでは茨城県のパセリや静岡県のお茶が汚染されたと報道され、それから数週間も経たないうちに、福島から出荷された牛が汚染されていたとの情報も流れます。牛の出荷元は、汚染は比較的少ないと言われていた棚倉町近隣だと知ったのはそれから一ヶ月ほど後でした。棚倉町は、福島第一原発から約70km離れています。
それでも私は、福島は安全なんだ、大丈夫なんだと自分に言い聞かせました。国が言っているから、東京電力が頑張っているから、と。本当に危険なら今すぐにでも避難を命じられているはずだと思ったからです。
3 当時、職場では青果部門を担当していました。全国各地や福島県産のみならず、配属先の棚倉町や周辺市町村で採れた地場(じば)野菜や果物も買い付けして販売していました。
大丈夫と信じたかった私は、その野菜や果物を食べました。率先して。そして、多くのお客様へ販売もしました。
職場では、原発事故後およそ一週間前後で、各市町村の青果物が、大幅に緩和された基準値すら超えて汚染されていたとして出荷停止・販売自粛の情報が毎日本部から届くようになり、確認に追われる日々が続いていました。その業務が始まってしばらく経ったころ、ついに私の故郷である桑折町の名前が出てきた時、初めてもうダメなのかもしれないと受け止め始めました。
同時に、それまでの期間に報道されていた内容は「メルトダウンはしていない」「炉心溶融だ」など言葉遊びのように、まるで影響はないと言わんばかりのものばかりでした。このような報道の仕方、安全の基準とされていたはずの基準値を大幅緩和、それでいて出荷停止や販売停止の情報のチェックに追われる日々に、私は本当に分からなくなっていたのです。
このまま食べていていいのか、大好きな福島の野菜や果物を、お客様に販売していて良いのか。ここにいて安全なのだろうか。
それは、お越しになるお客様も、地場の野菜を運んでくる農家さんも同じでした。
小さなお子さんを連れた若い夫婦は「がんばっぺ福島」と銘打った福島県産のコーナーから野菜を取り、一方でお孫さんのいるお爺さんが東京産のキャベツを「東京のものも危ないから孫には食わせらんねぇ」と、私の前で呟いていたのです。
小さなお子さんのいるお母さんたちは福島のイチゴを見ると首をかしげ手に取るのをやめました。
野菜を卸しにきた農家さんにも小さなお孫さんたちがいたため、いつでも避難できるように家にある車に荷物を積んでいながら、「どうしたら良いのか」「孫には食わせられないんだよな」と、売らなきゃ生きていけない、けれど食べさせるのも苦しい心境を吐露していました。
それだけではありません。当時水道水も危険だとミネラルウォーターを購入する方が大勢いましたが、交通網も破壊されている中で在庫が少なく、より地震・津波の被害が酷い地域や汚染が過酷な地域に優先的に回されていたため購入制限がかかっていました。個数を超えて購入しようとするのを従業員が泣く泣く取り除いた姿をみて、「小さい子供がいるんですよ」と女性のお客さんが叫んでいました。
結果として、事故後約1ヶ月を過ぎたころから、報道はさりげなく「メルトダウンした福島第一原子力発電所では…」と。今までの報道は何だったのかという悲しみ、本当に国や東京電力が言っている事は信用できるのか、そんな不信感を抱くには十分な振る舞いでした。
そして、福島はダメかもしれないと受け止め始めた時に、後悔の念が生まれました。私は、危険なものを、毒にまみれたものをお客様に売ってしまい、誰かの命を奪う行為に加担したのかもしれない、という後悔です。それは今もなお心の中に引っかかっており、避難してからも福島のものを食べることに戸惑いを覚え、九州の皆さんにも「心配があるのなら無理に食べる必要はありません」と言ってきました。本当は福島のものが美味しい事を知っています、懐かしくて、食べたくて、皆さんに知って欲しい、それでも言わざるを得ないのがこの15年間です。
4 たくさんの怒りがあります。悲しみがあります。避難を選び、そのことを公言し、強い言葉で福島の人々に避難を促し、そのことで多くの人たちと喧嘩もしてきた私には、福島に戻るという選択肢はありません。福島にもう一度住み直す権利はありません。これは私の責任かも知れません。原発の真実を知らなかったこと、平和だった頃に知ろうとしなかったこと、故郷を裏切ったことの責任です。
結果的に原発への憎しみはあります。このような出来事が起き、誰の責任も取られず、単に避難した者だけがおざなりにされた事を考えれば、原発はいらないという思いも出てきます。
ですが、それは反原発でも何でもありません。私の本当の願いは、ただ福島を綺麗に戻して欲しいのです。被曝した故郷の皆さんがいつまでも元気であれるよう、被曝を0にできる方法を早く作って欲しいのです。
そんな私がなぜ避難者訴訟に参加しているのか、それはお金が欲しいからではありません。この後に及んでなお責任を受け入れない国や東京電力の姿勢に一矢報いる為です。お金で解決する話なら、国や東京電力は私たちにただお金を払えば良いだけです。しかしそんな事ではないから、今この場があります。
事故当初に「危険か安全か分からないから一度避難して欲しい」と動くこともなく、現実は残るも避難するも一個人に責任を押し付け、国も東京電力も責任がない振る舞いをしたこと。
小児甲状腺癌検査をして多くの子供達が被害に遭っているにも関わらず、その数を「たくさん検査したから」増えただけと言ってのける態度。こうして評価を矮小化し、責任を放棄しようとするものにしていることに怒っているのです。
そして九州に避難してから、福島県のみならず、東北、そして関東圏から多くの方が避難してきていたという事実を知りました。
最初に知り合った関東からのご家族は、まだ小学生にも満たないお子さん2人が事故後1週間鼻血が止まらなかったそうです。その時に、何が何でも子供を守る、と避難を決意されたとのことです。
このように、多くの方が被曝の危険に晒されたこと、現に被害を受けたこと、それだけの責任があることに目を向けてください。東北、関東圏から避難してきた方達がいる現実も受け止めてください。そして、その方達へも支援の手を差し伸べてください。
せめて、その責任があることを認めてください。
その責任があってはじめて、福島が本当にきれいになる方法を一緒に探すスタートになると思います。
本当は、国や東電の弁護士の皆さんと裁判の場ではなく一個人としてお酒を飲みながら、一緒に福島を綺麗にする方法を語り合い、友人になれたら良いなとすら思っています。
そんな思いを込めて、意見陳述を終えます。
以上
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